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最中の誕生から今
「最中」の名前の由来は、平安時代に編纂された後撰和歌集にある源順の歌、「水の面に照る月なみを数ふれば今宵ぞ秋のもなかなりける」にあるとされています。
宮中で催された月見の宴の際、出された白く丸いお餅が、池に映し出された満月(中秋の名月)に似ていることから「最中の月」と命名されたといいます。
実際に市中に出回るようになったのは江戸中期(1800年頃)で、最初に作り出したのが吉原廓内の竹村伊勢さんというお菓子屋であったとされ、人気を博したようです。もちろん当時の最中は現在のものとはすこし違った趣のお菓子でした。
もち米の粉を水で練り、蒸して薄く延ばしたものを丸く切って焼き、砂糖蜜をかけたものだったようで、いわゆる蜜掛け煎餅です。これが最中のルーツです。
ではいつ頃から、現在の最中のようにあんこが入った形態になったのでしょうか。意外にも竹村伊勢さんと同時期、日本橋にあった吉川福安さんと林屋善介さんという二軒のお菓子屋が売り出した、「最中饅頭」が始まりであったようです。
いつの世も真似るだけではなく、ちょっとした工夫がヒット商品を生み出す基のようですね。なおこれらは、当時流行した川柳や今でいうガイドブックにしっかりと記述されていますので、信用できる誕生劇といえるでしょう。
今からおよそ80年前の大正から昭和にかけての頃、最中は大衆菓子として一大ブレイク期を迎えます。多くのお菓子屋がこぞって販売し、その地を代表する銘菓として花が咲きました。種(皮)に餡を入れれば、蒸したり、焼いたりすることなくそのままで出来上がる簡便さが作り手にとっても好都合だったのかもしれませんね。
しかしブームは長くは続きませんでした。多くのお菓子屋が販売しているとなればおのずと競争がはじまります。お菓子屋の命ともいえる餡を、古い餡などの廃物餡を代用することが多かったと聞きます。
そうまでして、“他より安く”をウリにしたかったのでしょうか。結果は、売れない→売らないという構図になってしまうのは当然です。一方では、種の形のデザインが良く、餡も工夫され、地元の特産品を使うなどして、今なお高い人気を誇る最中があることを思えば、作り手のちょっとした意識の違いが悠久の時を経て、大きな違いになることが証明された良い例ですね。
とにかく甘ければ良いとされた戦後、尻尾まで餡の詰まったタイヤキの如く、たっぷりと餡が詰まった最中がもてはやされました。お菓子(嗜好品)の域を越えた、生きる糧でもあったのです。当時の苦労がしのばれます。
今では、あまり大きな最中は好まれません。一口二口サイズといったところでしょうか。餡も含糖量を抑え、あっさりとしたものが多いです。戦後から60年余りでずいぶん変化しています。これから先はどう変化するのか楽しみです。
余談ですが、3歳くらいの子供が母親に、「もなか食べたい」とおねだりしたそうです。幼い我が子が和菓子に興味を持ってくれたことに喜んだ母親が、近所で評判の最中を買ってきて、子供に渡しました。ニコニコ顔でひとくち頬張った子供が言った言葉が、「お母さん、このもなか冷たくないよ」・・・そうです、子供はアイスモナカを求めていたのです。実話です。本当にこんな時代がくるかもしれません。
長い歴史を持つ「最中」。秋の夜長に、あつーいお茶と一緒に召し上がってください。
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